2月15日のチョコレート

 まだ幼かったある年、友だちのレイコちゃんがお父さんにバレンタインのチョコレートをあげるんだと楽しみにしていた。彼女のお父さんは彼女のことが大好きで、毎週土曜日には遊園地やお買い物に連れて行ってくれるのだと話していた。

「へえ、いいね。うちのお父さんは忙しくていつも家にいないからなあ」

 わたしが羨ましがると、レイコちゃんは明るい調子でこう言った。

「ミヨコちゃんもパパにチョコレートあげたらどうかな。きっとお返しにお出かけ連れて行ってくれるよ」

「そうかな?」

「うん、ぜったいぜったいだよ。だって今年のバレンタインデーは土曜日だもん。渡す時にお願いしてみようよ!」

 レイコちゃんが力強く言うので、それなら家のお父さんもどこかに連れて行ってくれそうな気がしてきた。

「金曜日学校が終わったら、家でママとチョコレートを作る予定なんだ。ミヨコちゃんも一緒に作らない?」

「本当?作りたい!」

 それからというものバレンタインデーが楽しみで仕方なかった。おませなレイコちゃんは、クラスで一番かっこいいリョウスケくんに『本命チョコ』をあげるのだと浮かれていたけど、わたしはお父さんにあげるチョコレートのことで頭がいっぱいだった。

 

 やっと金曜日が来た。レイコちゃんの家にお邪魔して、優しい彼女のママと『ガト―ショコラ』というお菓子を作ることになった。

「ちゃんと秘密にしてる?」

「してる、してる」

 レイコちゃんのママに言われる順に材料を入れてかき混ぜながら、わたし達はひそひそと内緒話みたいに会話を交わした。

「ミヨコちゃんのパパ、喜んでくれるよ」

「うん、とっても楽しみ」

 小さいハートがちりばめられた可愛い袋にリボンをかけてもらって、わたしはごきげんで家路についた。なんとなくお母さんにも内緒だったから、自分の部屋の一番寒いと思う場所を見つけて置いておくことにした。

「早く明日にならないかなあ」

 遠足でもこんなにわくわくしたことはない。わたしは何度もラッピングされた袋を見つめたりなでたりしながら、まだかまだかとバレンタインデーを待った。

 

 ねぼすけなわたしなのに、いつもより1時間も早く目が覚めた。チョコレートを大切に持ち、お父さんとお母さんの寝室へ向かった。

「お母さん、お父さんは?」

 寝室に行くとお母さんしかいなかった。なぜか旅行に行く時の鞄にどんどん荷物を詰めている。もしかして急にどこかに出かけることになったのだろうか?まだチョコレートを渡していないのに。

「わあ、どこか行くの?」

 わたしはとび跳ねながらお母さんにきいた。

「ミヨコ、ちょっと座りなさい」

 わたしの高ぶった気持ちは、手を休めずに言ったお母さんの声のトーンですぐにしぼんだ。パジャマのポケットに慌ててチョコレートを隠し、わたしはすぐ言う通りにした。お母さんもわたしに向かって正座した。

「あのね、昨日の夜遅くお父さんと話し合ったんだけど。お父さんとお母さんは離婚することにしたわ」

「りこん?」

「別れて別々に暮らすってことよ」

 それはすごく嫌だった。しかしよく見ればお母さんの目は真っ赤で、まぶたもいつもより厚い。たくさん泣いたのかもしれない。そう思うと嫌だとは言えなかった。

「……わかった」

「ミヨコはお母さんと一緒に来るのよ。お父さんはミヨコが居たら邪魔なんだって。大きな荷物はあとで手配するから、着替えなんかを準備して。おじいちゃんの家に行きましょう」

 ミヨコがいたら邪魔なんだって。

 ミヨコがいたら邪魔なんだって。

 ミヨコがいたら、邪魔、

 お母さんの言葉が頭の中に刻まれたようだった。

 わたしは自分の部屋に戻って旅行用の鞄を引っ張り出し、お気に入りの服から詰めていった。

 おじいちゃんの家は九州にある。わたし、転校しなくちゃいけないのかなあ。そうするとレイコちゃんにももう会えないな。お父さんにももう、会わないままなのかな。……たぶん、そうだろうな。

 しばらくしてお母さんが、準備は出来たかと呼びに来た。残りは慌てて適当に詰め込み、パジャマから着替え終わった頃にはもう玄関でわたしを待っていた。

 もたもたしていたら、お母さんに置いていかれてしまう気がした。そうなったら邪魔なわたしには居場所がない。

 チョコレートをリビングの机に置いていこうかと一瞬考えたけど、鞄に放り込んで持っていくことにした。お母さんはしきりに飛行機の時間を気にしていた。

 おじいちゃんとおばあちゃんはわたしが来たことを喜んでくれて、その日のご飯はかなりのごちそうだった。だけど、ご飯を食べ終わるとお母さんと3人で大切な話があるからとわたしを追い出した。

 おばあちゃんが布団を出してくれた部屋に行くと、もう12時を回っていた。いつもならお母さんに怒られる時間だ。たたんだままの布団に寝っころがってしばらく考え事をした。

 これからわたしどうなるんだろう。こっちになじめるかなあ。まあ、おじいちゃんもおばあちゃんも優しいから、きっと大丈夫だろう。レイコちゃんに手紙を出せるかなあ。新しいお友達はできるかな。

 考えていると不安になってきて、思い出したように鞄から渡しそびれたチョコレートを引っ張り出した。一日中持ち歩いたせいで半分潰れかけている。

 ミヨコがいたら邪魔なんだって。

 お父さんにとってわたしは邪魔だったのかあ。我慢していたわけではないけれど、始めてぽろりと涙がこぼれた。

 一度こぼれたら止まらない。次から次へとこぼれる、こぼれる。

 わたしはしゃくりあげて泣きながら、乱暴に包みをはがした。不格好になったチョコレートを口に投げ込む。

 甘くもしょっぱくもない、なんの味もしないチョコレートだった。

 

 

 わたしも大人になった。

 今年は意を決して、チョコレート売り場に飛び込んだ。

 

 
 何度もチャイムを鳴らす。何事だと驚いて出てきた彼が、わたしと突き出された箱を見て「それは明日だろう」と笑った。

「バレンタインは嫌いだから期待するなって言ってたのに」

 コーヒーを淹れながら言った彼に「気が変わった」とわたしは返事をする。

 包装紙をはがして箱を開けた瞬間、嬉しそうな声があがった。

「お、ガト―ショコラ!一緒に食べようよ」

 ほど良い甘さのチョコレートを美味しいねと言い合って、二人でのんびりと食べた。

「今度のお休みはどこに行こうか」

 彼が何気なく言ったから、舌に残った甘みが少し強くなったような気がした。

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