箱入り娘が、お受験ノイローゼをこじらせた。

「出遅れた」と、いつもママは言っている。うちのママは教育ママだ。パパは別に普通だけど。

 ママが気にしているのはわたしの将来のこと。もっといえば、わたしの将来が成功することで保たれる、自分のプライドのこと。

 わたしが住んでいる田舎町には私立の小学校なんてない。パパやおじいちゃん、おばあちゃんが中学校まで地元の学校でいいじゃない、とママを説得するけどまったく意味はない。

 ママは『公立』という言葉が大嫌いなようだ。毎日車で送り迎えをすることになっても、わたしに県にひとつだけある私立の小学校を受験させるべきだったと思っている。

 そんなわけで、中学受験はいわばママのリベンジなのだ。わたしは三年生の頃から塾やお稽古に行かされる、忙しい子どもになった。

「サヤちゃんだけがママの希望なの」

 しょっちゅうママは言う。塾の友達も同じようなことを言われて、うんざりしているらしい。ママの希望はママ自身で叶えられるものにして欲しいと思う。今頑張れば大学までエスカレーター式でいけるから安心だというけど、わたしはまだ十歳だから安心なんていらない。だけどまあ。勉強以外ならママは優しいし、本当に一生懸命だし、付き合ってあげようと決めている。

 

「お前、箱入り娘なんだってな」

 今日、クラスの男子、前田にそんな言葉を投げつけられた。二年も先の受験のために、余計なお金をかけて塾に通わせられているわたしは、「箱入り娘」であるらしい。たぶん前田の親が言っていたのだろう。この町じゃ、うちのようなお受験一家は噂話しの種だ。都心からお嫁にきたというママは馴染めず、わたしの中学入学と同時に引っ越したいとよくパパに相談している。

「箱入り娘なんかじゃないし」

 わたしは言い返した。口げんかなら負ける気がしない。だって前田とわたしじゃ知ってる言葉の数が違うもの。言い負かしてやろうと思った。

「大事に大事に、狭い箱の中で育てられてるんだろ。そういうの過保護っていうらしいぜ」

「あなたには関係ないでしょ。そういうの過干渉っていうのよ」

「なに言ってんだお前」

 過干渉の意味が通じなかったらしい。わたしはふふんと鼻で笑った。前田はそれが頭にきたようだった。

「自由がなくてかわいそうだよなあ、箱入り娘さんは。だって全部親に決めてもらうんだろ?俺なんか、今日の放課後ドッジボールしようが、ゲームしようが自由だぜ」

 前田はわざとわたしをイライラさせる口調で言った。

「べつに羨ましくもなんともないから。いい学校に入って、いい会社に入って、いい人と結婚するんだもん。今ちょっと我慢すればそれが手に入るのよ」

 わたしはいつものママの言葉を借りて言い返した。すると前田は一変して、心配そうな、いや気の毒そうな顔を見せた。

「お前、まじでそれでいいの?本当にそう思ってんの?」

 意外な反応にとまどって黙っていたら、前田はさらに言葉を続けた。

「なんか、かわいそうだな」

 胸のあたりがざわりとした気がした。あれ、わたし本当にそれでいいのかな。

 

 今日は塾の日だった。隣町に向かうバスを待ちながら、わたしはどうしたものかと考えていた。

 わたしはいつだっていい子だったし、ママの言うとおりにしてきた。でもそれで本当にいいのだろうか?

 バスが時間通りにやってくる。このバスが毎日わたしを、少しずつ取り返しのつかない場所まで運んでいるのかもしれない。そんな考えが頭に浮かぶ。震える足を無理やり動かしてどうにかバスに乗り込んだ。

「ドアが閉まります」

 運転手さんの声が心のない、地獄の底から響いてくるもののように感じる。「もう戻れません」とでも言っているようだ。まるで死神の声じゃないか。今日を最後にもう、逃げられないかもしれない。バスが空気を吐きだす音がして、ドアが閉まった。

 どうしよう。塾の前のバス停まであと四つ。それより前で降りてしまえば、まだ間に合うような気がする。簡単だ、この壁のボタンを押すだけだもの。押せばピンポンと光って、運転手さんは仕事だからバスを停めなくちゃいけない。そうしたらまだ逃げられる。

 なのにわたしはボタンを押すことができなかった。じんわり冷や汗をかいて、座席の脇を握りしめているだけだった。

「光輝ゼミナール前~」

 聞き慣れたアナウンスが流れる。他の誰かがボタンを押した。だんだんお腹が痛くなってくる。

 もしくは。このままバスに乗ったままでいれば、違うところに行けるのではないだろうか。ママに決められた人生より、そこは楽しいかもしれない。前田にも馬鹿にされずにすむかもしれない。

 同じ塾の子がひとりだけ、横を通って降りていく。動くな、動くな、座っていろ。バスが発車したら、こっちのものだ。わたしはぎゅっと目をつぶった。ママの顔が浮かんでくる。わたしがいい点を取ったら喜んでくれるママ。いろんな学校のパンフレットを取り寄せて嬉しそうにしているママ。こんな田舎町で、わたししか希望がないママ。

「君は降りないの?」

 はっと目を開けると、運転手さんがにっこりしてわたしを見ていた。なんだ、死神の気配なんて全くない。

「あ、降ります」

 わたしは慌てて立ち上った。バスを降りて、本当に死神じゃなかったか確かめるために、そっと振り返った。

「気をつけて。ほどほどにね」

 わたしと目が合うと、運転手さんは優しく手を振りながらそう言ってドアを閉めた。そのまましばらくぼうっとしていたみたいだ。気づけば、震えも冷や汗もおさまっていた。

「大変、遅刻しちゃう」

 時計を見て、わたしは走りだした。わたしはまだ十歳だけど、今、自分で人生を決めた。

 いい学校に入って、いい会社に入って、いい人と結婚する。ちゃんと、ママも喜ばせてあげるんだ。

「あーあ、箱入り娘って忙しいなあ」

 わたしはわざと呟いてみた。少し笑えて、ほっとした。

おすすめの記事