見栄っぱりのワンピース

 奮発して買ったワンピースを干していたら、洗剤が溶け残っていた。

 ここ最近洗濯をさぼったせいで量が多く、詰め込めるだけ詰め込んだのが原因なのか、オシャレ着用洗剤などないから安い洗剤を使ったせいなのかはわからない。とにかく、真っ黒でてろりと光沢のある洒落た生地にべったりと白い洗剤が溶け残っていたのだ。それも広範囲に。

「まじ最悪」

 ため息をついてワンピースをハンガーにかけたまま風呂場に移動する。ワンルームについてきた辛うじて風呂トイレ別の風呂場はかなり狭い。浴槽の上のシャワーカーテンのレールにハンガーを引っかける。ぶらぶら揺れるワンピースに勢いよくシャワーで水をかけたが、全く落ちずもっとぶらぶらするだけだった。

 仕方がない、ちゃんと洗わなきゃ。と、手を伸ばした時に悲劇は起きた。

 プラスチックのハンガーからするりと滑り落ちたワンピースが、浴槽の中に落ちたのだ。昨日の夜、気分転換だと調子に乗って『ローズ&ローズ』というロマンチックな商品名の入浴剤を入れた浴槽の中に。どぼんと。真っ赤な水の中に、黒いワンピースが沈む。なんだ、なんだ。殺人現場かここは。セール品とはいえ、四万八千円をはたいたワンピースが沈む。無様に沈む。

 そこでわたしのなにかがぷつりと切れる音がした。おそらく涙腺が切れる音だったのだと思う。

 なんだかわたしは立っていられなくなって、濡れた床に座り込んだ。手からシャワーヘッドが落ちて、これも沈んだ。両手を浴槽のふちにかけて覗きこむと、水圧がぼこぼこと水面を持ちあげている。すでにわたしの目からもぼこぼこと涙がこぼれ落ちていた。ぼこぼこ、ぼこぼこ。浴槽に落ちた涙が一瞬、ドラマチックに波紋を作ったがすぐにぼこぼこにかき消された。

 なんでこんな浮かれた入浴剤なんかいれたんだろう、去年の誕生日にプレゼントしてくれた友人を恨んだ。

 そもそも、ちゃんと洗剤を買いに行っていれば、もしくはワンピースだけ別にしてネットにでも入れて洗っておけばよかったのに、自分のどうしようもないずぼらさを恨んだ。

 いいや、ワンピースをクリーニングにも出せない経済力の無さのせいだ、先の見通しが悪すぎる安月給の会社を恨んだ。

 それより以前に不相応のワンピースなど買わなければ良かったのに、このワンピースを買う原因を作った橋本を恨んだ。

 橋本は同じ大学の友達だったが、わたしと違ってまあ見事に出世した。わたし達はとても仲が良かった。どうせ最後は橋本と付き合うんだろうな、とわたしは思っていたし、橋本も思っていたはず。だから急ぐ必要なんてなかった。お互い、別々の相手と付き合ってみたりもした。わたし達、若かったのだ。

 橋本は、将来添い遂げる女性にはバリバリ働いて欲しい派、だと言っていた。わたしが、バリバリ働くキャリアウーマンになる予定だ、と言ったら奴は「そりゃ安心だ」と笑っていた。だけどタイミングが合わなくて、わたし達が大学生の間にお付き合いにいたることはなかった。

 それが先週、本当に久々に橋本から突然連絡が入った。二人で食事にでもいかないかって。ちょっとお洒落なレストランなんか指定してきたりして。

 ついに来たか。わたしはそう思った。卒業してから四年。ちょっと遅かったけどこの時が来るのをわたし、実はずっと待っていた。やっと来た、ベッドの上で飛び跳ねたくらい嬉しかった。でも同時に焦りもした。家賃五万二千円でひいひい言っているわたしの現状なんて絶対見せられない。だってバリバリのキャリアウーマンになるって、あいつに言ったんだもの。

 約束はちょうど一週間前の土曜日。金曜の夜わたしは死に物狂いで仕事を片付け、いつものように飲みに誘ってくる同僚達に「わたしにも春がきたわよ」なんてあほなことを言って、いそいそとファッションビルに駆けこんだ。

 そして今、この赤い水につかっている黒いワンピースを買った。

「今度結婚しようと思うんだ」

 橋本は少し恥ずかしそうにそう言った。「お前、喜んでくれるよな?」とも。

 お相手はあいつが勤める会社の派遣社員。写真を見せてもらったけどふわふわしてキラキラして、パステルピンクのワンピースなんか着ちゃってる女。

「へえ、よかったじゃん!」

 わたしは声が震えないように、はしゃいでみせた。

「まあな。なんか頼りなくてさあ、守ってやらなきゃと思って」

 なんだよそれ。バリバリ働く女がよかったんじゃないのか。

 お洒落なレストランは彼女にプロポーズする為の下見だそうだ。そうかい、そうかい。もしかしてわたしって、ものすごく馬鹿みたいじゃない?そう思ったらもう駄目で、気がついたら泣いていた。

「どうしたんだよ」

 おろおろと橋本は言って、なだめるようにわたしの頭に手をおいた。下手に女慣れした風にしやがって、このくそ野郎。

「他の女の話しなんて、聞きたくなかった」

 わたしがそう言うと、さすがに気がついたみたいで手を引っ込めた。

「だってお前。いや、うん」

 もごもご言いながら黙りこむ。長い沈黙の間に、わたしの涙もだいたい止まった。もしかしたら泣きやむのを待ってたのかもしれない。ようやく橋本は口を開いた。

「やっぱり俺さ、お前の方がいいのかな」

 そりゃそうだろう。百パーセントその方がいい。だけど聞き逃せない。お前の方がいいのかな?わたしはそんな台詞を待っていたわけじゃない。

「馬鹿にすんな。さっさとプロポーズして結婚しろ。わたしは男に守ってもらわなくて結構」

「そっか、そうだな」

 橋本は頷いた。もっと、「でも」とか言ってねばれよ。泣いてんのに。何年越しの想いだと思ってるんだ。

「こうなったら、高い酒たらふく飲ませてもらうから」

 わたしの強がりを「そういうとこ好きだわ」と、橋本は嬉しそうに笑った。

 手が痺れてきたし、頭も痛くなってきた。浴槽を見ると赤い水はほとんど透明になっていた。あふれだした水で服もずぶ濡れだ。蛇口をひねって水を止める。ワンピースをちょっとこすったら、溶け残りは簡単にとれた。ずっしり重くなったワンピースを引き上げる。もう一度ハンガーにかけて、浴槽の水は流した。涙はもう枯れていた。

 とりあえず着替えようと風呂場から出ると携帯が鳴った。誰だよ、こんな気分の時に。そう思いながら目を向けると、画面に表示されていたのは橋本の名前だった。

「もしもし!」

 床が濡れるのも構わず、飛び付くようにして電話にでる。

 今さらなんだ。プロポーズ成功の報告か?いらないんだよ、そんな連絡。元気よく電話に出てしまった自分を後悔した。

 元気にしてた?なんてどうでもいい話しをしてきた後、橋本は言いにくそうに、でもはっきりと言った。

「……やっぱり俺さ、お前がいいな」

 開いた窓から風が吹き込んで洗剤の匂いがした。

「……本当に?」

「本当に」

「……まあ、いいけど?」

 枯れたはずの涙がまたこぼれる。わたし橋本のせいでどれだけ泣くんだろうな、柄じゃないのに。

 でもよかった。わたし、ずっとずっとあんたがそう言ってくれるのを待っていた。

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